2次元にも救われなくなったクソオタクの話
私はなんやかんやでメンタルをぶっ壊した。
話すと長くなるが、主な理由はふたつ。
①家族が、確実に死に至る進行性の難病を発症したこと。
それによって生活環境は一変した。
事実を受け入れられず、焦り怒り恐怖する患者本人に振り回されることが増え、私も家族も消耗していった。
不幸中の幸いであったのが、私も弟も大学を卒業し、就職していたタイミングだったことだろうか。
在学中だったら、今よりも厳しい環境になっていたことだろう。
とは言え、24時間在宅介護生活は、厳しい現実ばかりだ。
②職場のストレスである。
当時、私たちの部署には休憩時間など1秒も存在しなかった。
下手したら命に関わる緊張感、肉体的にハードすぎる業務。
激務のストレスからこちらに当たり散らす先輩。
ミスしてなくてもきつい口調で糾弾される。
もう最悪だ。
家庭にも職場にも私の安寧はない。
そんなわけで私はメンタルをぶっ壊した。
メンタルをぶっ壊す前の私を説明しよう。
私はオタクだった。
ずっとオタクとして生きてきた。
ちゃお、りぼんを経て、私はジャンプを読み始めた。
と言えば完全に世代がわかるだろう。
中学生でジャンプに目覚めた私は、ボンゴレリングを筆入れにつけ、毎週火曜日はジャンプの感想を言い合い、気に入ったページをスクラップブックにする、立派なオタクとなった。
当時ヘタリアブームだったこともあり、流れに乗るためには世界史の勉強も必要となった。
とりあえず「かんたん イタリア語入門」のテキストを買い、サイゼリヤで勉強したこともある。
友達に倣い、ポーズから入ってみただけなので、全く習得しなかったわけだけど。
それと同時にスポーツガチ勢の道を進んでいた私は、運動ができるクソオタクだった。
美術部に入って落書きして駄弁りたかった〜なんて美術部に失礼なことを思いつつ、体育館に駆けて行く放課後を過ごしていた。
部活の後はコーチの元に通って練習、塾にも通い、なかなかに多忙なオタクだったと思う。
しかし別にスポーツを好きでやっていたわけではなく、流れに乗っていたら(乗せられていたら)そうなってしまっただけなのだ。
しかしそれなりに成績はよく、毎日部活が嫌すぎて泣きながらも、高3のインターハイまで続けた。
そんな私が、なぜ来る日も来る日も泣きながら部活に行けたのか。
優秀なガリ勉たちの集う学校で生活できたのか。
それは私がオタクだったからだ。
辛いことも、大好きなキャラクターがいるから耐えられる。
私は推しに支えられ生きてきた。
そんな私の生涯の本命は「Sちゃん」である。
(名前は伏せるが、可愛いツッコミメガネの少年だ)
オタクに加え、腐女子でもあった私は、「推しCP」の力によって生き延びることができた。
「地雷」をもっているため、事故に遭ったときのダメージはそれなりに大きいが、「そっ閉じ」の文化に育ったため、私は腐女子として楽しく生きていた。
日々の楽しみは、個人サイトを訪問することだった。
個人サイトの良いところは、作者によって特色があることだ。
フォレスト、ナノ、エムペ、リゼ、どれも懐かしく、サイトの構成の仕方には様々な趣向があり、たいへん味わい深いものがある。
作者の世界を訪問しているような、楽しいお出かけ気分があった。
「半年ロムれ」という格言があるように、私もだいたい半年〜1年かけて創作するようになった。
情熱は有り余っている10代であり、見ていたらやってみたくなるのも、自然な流れだろう。
思いつきで始めたところで、まぁとんでもない、ド下手くその極みだった。
頭を抱えたくなるような、読むに耐えない文章だ。
しかしその頃が、私にとっては最も楽しいオタクライフだった。
何事もハマりたてや、始めたばかりの頃が一番楽しいのだ。
Web拍手でコメントをもらえたり、リクエストをもらえたり、自分の発信に対して反応をもらえることが嬉しかった。
地方民ではあったが、イベントに行って同人誌を手に入れることに命をかけていた。
なんか楽しそうに生きてんじゃん、という印象かもしれないが、私は当時、オタクライフと、現実つらいライフの極端な道を歩んでいた。
毎日泣くほど部活がつらくて、自信をなくして、ストレスからすぐ転んでしまい、三歩すら歩けなくなった時期があった。
「1リットルの涙」みたいな難病の疑いもかけられて検査を受けた。
幸い深刻な病気ではなかったものの、奇しくも10年後、それと同じような難病を家族が発症してしまうわけだけど。
保健室に行く途中、すっ転んだまま数分間立ち上がることが出来ず、目を回して転がっていたこともあった。
みんなが授業を受けている時間に、昇降口付近でぶっ倒れているわけだから、ひとりきりだ。
誰も通りかからないし、助けてはくれない。
ようやく立ち上がれるようになって、ひとりでフラフラと保健室に向かう惨めさよ。
また、午後の授業になり部活が近づくと、シャーペンをうまく持てなくなり、部活の時間になると利き手がグーのまま硬直して開かなくなる。
完全に心身症である。
1ヶ月間部活を休み、なんとか復帰して、最後まで続けることができたが、私はいつ折れてもおかしくなかったような気がする。
休んだのは夏休みの期間だったから、不登校になることはなく、学業にも影響は出なかった。
そんな私の心を支え続けてくれたのがSちゃんだ。
受験、部活、10代の様々なストレスは、Sちゃんを支えにどうにかクリアした。
そうして私は最愛のSちゃんへの想いを抱え、大学に進学した。
Sちゃんへの愛は変わらなかったが、私は新しい作品にハマり、ピクシブに投稿したりツイッターで思いの丈を綴った。
大学で腐女子の友達は出来なかったが、学科の友達はみんな明るく優しく、楽しく過ごしていた。
オタクとしての私は、個人誌を出したり、仲間と合同誌を出したり、アンソロにお呼ばれしたりと、オタクとしての自由が増えたことも嬉しかった。
とは言え大学生活は実習ばかりで忙しく、実習生いじめ的なものもあり、なかなかに苛烈な環境だった。
実習は期間限定だからと耐え、2次元に癒しを求めながらもなんとか資格をとった。
それも私がオタクだったから出来たことだ。
辛いときは、2次元が私の心の拠り所になることに変わりはなかった。
「現実」を生きる私とは、全く関わりのない遠い世界を覗き見たり、夢想することで私は一時的に現実から離れることが出来たのだろう。
しかし私はある時から、2次元に救いを求めることが出来なくなったのである。
それは冒頭に述べた通りの理由から、社会人になってからの私が、メンタルをぶっ壊したためである。
端的に言うと、私はうつ病になってしまった。
学生の時からなかなかにメンタルの弱い私であったが、2次元という薬が効かなくなるほどに弱ってしまったのだ。
突然どん底まで落ちたわけではなく、メンタルは徐々に削られていった。
下降していた自覚はあったため、筋トレして心身を鍛えて生きようと思い、ジムに入会して3ヶ月ほど通った。
それっぽい機械を使って筋トレしたり、ランニングしたり、太極拳をやったり、色んなエクササイズをやってみた。
しかしその努力も虚しく、私のメンタルはどんどん悪化していくことになった。
鬱には筋トレ!という実験結果を記録した論文が出回っていたのに、私には効果がなかった。
誠に遺憾である。
そのあたりから私のメンタルは目に見えてガタ落ちした。
家族は難病。余命もわからない。
患者である家族には当たり散らされ、どんどん重くなる介護、先行きの見えない未来。
仕事では休憩なく駆け回り、パワハラに怯える日々。
八方塞がりである。
そこで私はふと気づいた。
あれ?私いつからピクシブ開いてないっけ。
私は病めるときも健やかなるときも、2次元と共に生きてきた。
日々の楽しみであり、辛さを乗り越える手段であったはずの2次元に、2次創作に、全く興味がなくなってしまったのだ。
これは非常にショックなことであった。
由々しき自体であった。
オタクとして生きてきた私が、オタクの心を失ってしまったのだ。
アイデンティティの消失とも言える。
あんなに好きだった2次創作を読むことが、全く面白くない。
というか関心がもてない。
どーでもいい。
いわゆる「オタクED」というやつだ。
私のオタクEDは自覚していたよりも緩やかで、長期に渡っていた。
家族は私がもうオタクを卒業したものだと思っていたらしい。
確かにこの2〜3年で同人誌を買うことが徐々に減ってきて、ここしばらくはストップ状態だった。
それに新しい作品を知らない。
私の最新作は「弱虫ペダル」であり、それ以降の流行は知らない。
ローソンでやたらよく見かける「鬼滅の刃」を知らないし、主題歌の「紅蓮花」を知らなくて非オタにまでバカにされた。
紅蓮花この世の常識なのか?
今のジャンプ作品はもうほぼ知らない。
ハイキューって終わった?まだ終わってない?
完全に浦島太郎である。
もちろんSちゃんへの愛はあった。
好きかと訊かれれば大好きだと答える。
しかし情熱は確実に衰えていた。
勿論2次元の中じゃ、私にとってSちゃんの存在は別格だ。
しかし、同人誌を段ボールに詰めてしまってから、もう何年も開封していないし、通いつめていた個人サイトの名前すら曖昧になっていた。
私は2次創作オタク以外にも趣味があり、休日はパンやケーキを焼き、裁縫をしたりガーデニングをしたり、お笑いを見たり、パーソナルカラーや骨格診断を受けて、メイクやおしゃれをするのが好きな女だった。
オタクEDになってからは、私はいずれの趣味も失った。
まだ若いから外見は多少気にするが、製菓は面倒になったし、毎日花に水やりするのも億劫で、お笑いにも笑えない。
こんな状況になる前は、優しい先輩に囲まれ、感謝しながら一生懸命働いていた。
家族関係も良好であり、特に母が好きなマザコンだった。
親友もいるし、他人よりも恋愛に関心がないもののとりあえず彼氏もいたし、人間関係に大きな不満はなかった。
そこからぜーーーんぶ変わってしまったのだ。
今まで躓いたときに使っていた切り札である、「2次元」が使えなくなってしまったことは、大きな痛手だった。
現実逃避の世界に逃げ込む手段を、妄想の世界へ駆け込むためのパスポートを、なくしてしまったのだ。
オタクであるはずの私は、とうとう2次元に逃げることも叶わず、迷子になってしまった。
何故だろう。考えてみる。
多分私は、逃げられないと、逃げてはいけないと思っていたのだ。
自分はもう大人になったのだと、そう思っていた。
自立し、ひとりの人間として決断し、生きていかねばならないと強く思っていた。
だから私は、この課題を丸投げすることが出来ず、だからと言って背負うことも出来ず、自分をぶっ壊すはめになってしまったのだ。
高校生の頃は、まだ両親が守ってくれる未成年。
だから自分のことだけを考えて悩むことが出来たし、辛くなれば2次元で気を紛らわせて逃避しても許された。
大学生だってまだ学生。いずれは自立しなくては、でもまだ大丈夫。
そんな風にモラトリアムを生きていた私だったが、もう大人なのだ、自分が頑張らなくてどうする。
焦っていたのだと思う。
自分がまわりよりも劣っていると思っていたから、余計に頑張らなくてはと変に気負っていた。
今まで守ってくれていた家族が、病によって崩壊しようとしているのだから。
私はもう守られるばかりの立場ではいられないのだから。
2次元に逃げ込んでいる場合ではない、と自分の心のどこかで思っていたとしても、状況は悪化の一途を辿り、メンタルはどんどん壊れていった。
辛いとき、鎮痛剤として使用していたSちゃんが、2次元が、とうとう効かなくなってしまった。
ということは、以前にも増した痛みを、鎮痛剤なしで耐えねばならないということだ。
私には代替手段がなかった。
自分で行動し解決しようという思いは強く、自分でメンタルクリニックを予約し、受診した。
メンタルクリニック…というとハードルが高く、「変な人が通うところじゃないか」
「薬漬けにされるのではないか」
と不安に思う人も少なくないかと思う。
他人が通うことはなんとも思わないが、自分がとなると抵抗がある、という場合もあるだろう。
しかし私には他に手段がなかった。
今の精神状態を楽にするため。
どの道、治すには通院が必要となる。
ならばすぐに問題解決のために行動する方が適切だろう。
そう判断し、2次元という幻覚による鎮痛剤を失った私は、現実的な治療へと踏み切ることになった。
続く